「わたしの分解図~失恋編~」では、失恋というワードを話の切り口にして、ユニークな大人たちから話を聞いていきます。正解・不正解がないからこそ面白い、いろんな人の恋愛体験談と価値観に迫る!

人生の選択で迷ったら、「もう一度起きる可能性」が低い選択肢を。【後編】―電通 小林昌平さん

意中の人に声をかけられないなら、“愛ある上から目線”を。

ー哲学と恋愛って、こんなにも結びつくんですね!

小林さん:『恋愛の哲学』は僕のライフワークで、両者を力業で結びつけているところもありますが、どちらも人間の営みを扱っている以上、本質的には必ず結びつくと確信しています。『創造の哲学』と並んで、次に是非書いてみたいテーマなんです。
他にも、好きな人に近づけなくて悶々としている人にお伝えしたい哲学のコンセプトもありますよ。

ーそれ、聞きたいです!

小林さん:たとえば、キャンパスに気になる人がいて、いつもすれ違っているんだけど、なかなか声をかけられない状況ってありますよね。かつて僕にもありました(笑)。そんな時、レヴィナスという人が言った「歓待の倫理学」というのを応用できるのではないかと思います。

ー「歓待」ですか?

小林さん:言いかえれば「もてなしの倫理学」です。さっき挙げたハイデガーの哲学を、強力だけど自分だけで完結していると批判したユダヤ人哲学者エマニュエル・レヴィナスの考え方です。他者を弱き者として見る、彼らに手を差しのべる倫理学です。これを僕なりに強引に解釈すると(レヴィナス研究者に怒られてしまうかもしれませんが……)、自分よりもはるかに魅力的な人に対して萎縮してしまうことは誰にでもある。

しかしその魅力的な人も、ある時は孤独や寂しさを感じていたり、社会で嫌な思いをしていたり、いつか老いては病んで、死んでゆく運命にあるわけです。そう思えば、いま目に映っている魅力的な姿に対しても、あまり萎縮せずに振る舞うことができるのではないか、ということです。

ー頭では理解できますが、難しいですよ!(笑)。

小林さん:もちろん難しいです。目の前の人がキラキラしていたら引け目を感じるのが人間というものですから。けれども、仏教の世界でもカトリックの世界でも、生ける者への欲にくらまされない透徹した視点を身につけるために、死体置き場に行って、人の死体が腐乱していくさまをずっと見続けるという修業があったんだそうで。

それを恋愛に持ちこむのはさすがに極端かもしれませんが、どんなに魅力的でチヤホヤされていそうな人であっても、意外と承認(=他人からほめられること)に飢えているものではないでしょうか。

だから自分のテンパる気持ちを捨てて相手の寂しさを想像し、「憐(あわ)れみ」の心を持てば、声の一つもかけられるのではということなんです。いってみれば、愛のある「上から目線」でもてなすことが、気になる異性に出くわした時のあるべきスタンスなんじゃないかと。

結果が出なくてもいいんです。その人がお家に帰って、家族や友達に「今日大学で見知らぬ変な人に声をかけられてさ、もちろん断ったけど(まあ…悪い気はしなかったかな)」と笑って報告する。それでいいと思うんです。

ーどんなに美人でその人に欲望を感じたとしても、その人だって日々悩んだりしていることはあるし、いつかはその人だって老いていく運命にある。そう思えば、声をかけられる、かもしれないという(笑)。

小林さん:それが独り善がりな思いこみになって、たとえばストーカー的な行為になってしまってはダメですが、考え方としてはそういうことです。可能性は低いかもしれないけど、さっき言った「誤配」(想いが誰にどう届くかはコントロールできないということ)が起きて、10回に1回ぐらいは何かが起こるかもしれない(笑)

あらゆる表現は、うまくいかなかった恋のアナザーワールドである。 続きは次のページへ!