みなさんは、自分の将来を考えるとどんな気持ちになりますか?キラキラしている人の姿を見ては、何だか自分だけ置いていかれているような気持ちになるなんてことも・・・。
「29歳までの道しるべ」では、現在いろいろな舞台で活躍する大人たちを取材し、彼らの20代のお話を聞きました。
いまだからこそ言える“少しでも人生を前に進めていくためのヒント”です。

やめるという選択肢だけは、 持たない方がいい。ー電通クリエイティブディレクター/アンチモン―赤松隆一郎さん

姉妹の表情とCMソングがとても印象に残る サントリー GREEN DA・KA・RA「やさしい麦茶」のCMをはじめ、数々の気になる広告を手がけるのは、電通でクリエイティブ・ディレクター、CMプランナーとして活躍される赤松隆一郎さん。

赤松さんは、2人のミュージシャンと1頭のカンガルー(!?)による音楽ユニット「アンチモン」としての歌手活動も精力的に行っており、「やさしい麦茶」のCMソングもじつは赤松さんが作詞作曲をし、自らが歌っている曲です。そんな二足のわらじを履き、軽やかにキャリアを重ねているように見える赤松さんですが、ここまでの道のりは紆余曲折の連続だったようです。

銀行、転職、両親、地方…といった言葉も並ぶ20代の赤松さんは、どんなことに悩み、どんな選択をしていったのでしょうか。当時のことを振り返りながら、いろいろ話していただきました。

〜23歳 音楽を仕事にしたい。でも、親への遠慮がある。

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ー今日は赤松さんの20代を振り返ってもらうのですが、20歳の時は大学生ですよね?

赤松さん:筑波大学の学生でした。日本語・日本文化学類っていう新設から間もない、日本語教育のための課程を習得する学部だったのですが、授業には全然出てなくて。

バンドの練習をして、曲を作って、週末にはメンバーのワゴンで土浦市内や都内のライブハウスまで出てって演奏していました。そもそも、この大学を選んだのも、“首都圏から直線距離でたった60㎞”と赤本に書いてあったから。

愛媛県の松山に住む高校生にとっては「すごく近い」と思ったんです。実際は思いのほか東京から遠かったですが(笑)。とにかく音楽に夢中でしたね。

ー音楽自体はいつ頃から好きだったんですか?

赤松さん:物心ついた時からずっと好きで、高校の時には「歌を作ったり、音楽の仕事で生きていけないかな」と考え始めていました。とはいえ、大学に進学せず、いきなり音楽の世界に飛び込むぜ、とかそういう感じでもなく。なんとなく急速にドロップアウトする勇気がなかったんです。

父親が教師だったことも影響あると思います。わりと厳格だったし。だから、じわっとそうなるのが理想だなって思って。まずは離れた場所で一人暮らしだなってことで、地元から遠い東京近郊の大学を受験しました。

ー親の目の届かないところで、少しずつミュージシャンへの道を歩もうとしたんですね。しかし、経歴を見ると、大学卒業後に銀行に就職されていますよね?途中から将来について考え直したんですか?

赤松さん:いや、大学はちゃらんぽらんのまま。卒業単位が足りなくて留年したくらい。音楽はずっと続けてたんですけど、今と違ってインディーズはまだまだ弱くてデビューするにはレコード会社と契約する必要がありました。いわゆるメジャーデビューというか。

大学卒業前にはコンテストでも入選し始めて、レコード会社の人からも声をかけられるようになったんですが、ちゃんとデビューするにはまだ時間とスキルが足りなくて。だから、とりあえず就職して収入を得ながら、週末を使って音楽を続ければなんとかなるんじゃないかと思ったんですよね。楽器のローンもあったし(笑)。

ーとりあえずの割には、ミュージシャンとはかなり遠い業界に……

赤松さん:まさかの銀行ですもんね(笑)。でも収入を得る仕事として割り切りたかったのと、当時「日本のミュージシャンは契約と金の話に弱い」みたいな話を本で読んだりもしてたので、もしミュージシャンになったら契約書も読めて、お金のことも自分でやれるようになりたいと思ってたんです。当時はわりと真剣にそう考えてた。

それで音楽業界と真逆の金融の仕事を3〜4年しながら週末の音楽活動がうまくいけば、デビューする頃にはお金のことやビジネスの話法みたいなものも少しは身についてるんじゃないかって。

あと、大学まで面倒見てくれた親に対しても一度は企業に勤めた上で、やっぱり音楽をやる、と言いたいという気持ちもあった。自分としては結構、計算高くやってたつもりでした。まぁ、今思えば全然甘かったんですけどね。ただ親に遠慮して小狡かっただけで。

23歳〜26歳 デビューのはずが一転、引きこもることに。

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ー音楽を続けたいと思いながら、両親のこともやはり気になっていたんですね。銀行での4年間はどうでしたか?

赤松さん:もうね、めちゃめちゃ忙しかったです。土日に音楽やる時間を確保するのもひと苦労。ただ、勉強になったことも多くて。現在の広告の仕事でも音楽活動でもそうですが、最終的には、自分がやろうとしてることを周囲の人たちにわかってもらって、組織も含めて「いいよ」と認めてもらわないといけないじゃないですか。

銀行はそういう組織の中での働き方を知るには最適な場所でした。良くも悪くも(笑)。でも、やっぱり3年目くらいから、ここにこれ以上いるのは厳しいなって思ったんですよね。

そもそも、お金の計算が苦手なやつが将来の勉強になればと思って入ってるから(笑)。曲がりなりにやれるようにはなっても、全然向いてない。そのくせ「あいつの方が先に資格試験に受かった」とか「自分より査定が良さそうだ」とか、そういうとこだけ一人前に気になっちゃう。精神衛生上も良くないですよね。

もう限界だなと思った頃に、デモテープを送っていたレコード会社の一つとデビューの話がトントンと進み始めて。26歳の終わりくらいの時に正式に契約が決まったので、満を持して銀行に辞表を出しました。

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ーようやく好きな音楽で食べていけることになったんですね!

赤松さん:……それがねー(笑)。結果から言うと、デビューを白紙に戻さないといけなくなっちゃって。親に反対されながらも「今回ばかりはもう絶対にやる!」と辞表を出したちょうどその時期に、母親が大きな病気で倒れたんですよ。とりあえず、地元の松山に戻って看病をしていましたが、深刻な後遺症もなく本当に奇跡的に一命を取り留めたからよかったんですけど。

ただ、母が倒れたことのきっかけが自分の今回の振る舞いによる心労にあったんじゃないかとか、家の事情とかを考え出したら、当時の自分は音楽の道に進むという選択ができなかったんです。

ー銀行に戻るという選択肢は?

赤松さん:いや、とにかく銀行は辞めると決めていました。それははっきりしてた。「デビューする」と言って送別会でも送り出してもらった手前、かっこ悪いですしね(笑)。

仕事がなくなって、半年くらいは松戸に安いアパートを借りてそこからハローワークに通っていました。誰にも会いたくなかったし、話しかけられたくなかった。実家の母の病状が落ち着いてからは親にも兄弟にも会いたくなかった。

人がいない時間を見計らって食材を買い込んで、部屋にこもって好きな本を読んで、レンタルビデオで映画を山ほど観て、曲を書いて。ある種、引きこもりに近かった。でも今思うと、この時期に自分の中に溜まったものがすごくたくさんあったと思います。振り返ると、あの半年はとても貴重だったと思いますね。

ー赤松さんの話を伺っていると、人って自分の進む道であったとしても、自分だけでは決められない部分も結構あるものかもしれませんね。

赤松さん:うーん。情けない話だけど僕の場合は親離れができてなかったんじゃないかと思う。親は親で子離れが出来てないというか。そのあと転職して電通西日本松山支社に入ったのも、どこかに「親の近くにまだいた方がいいのでは」という意識があったから。

そういうのって度を超えると共依存的だし、本当にやりたいことがあったらもういい大人なんだからそんなの全部放って、周囲の状況に関係なく音楽を取るという選択肢もあったわけで。自分にはそれができない性格的な何かがあって、長年ずっとその、自分の中の何かと、大げさに言えば格闘していた気がします。

でも、世の中には僕のように自分のやりたいことと、そうはさせない何かとの板挟みになりながら生きている人も多いんじゃないか、とも思ったりします。

27歳〜 銀行から広告の世界へ。仕事と音楽も結びつく 。  続きは次のページへ