みなさんは、自分の将来を考えるとどんな気持ちになりますか?キラキラしている人の姿を見ては、何だか自分だけ置いていかれているような気持ちになるなんてことも・・・。
「29歳までの道しるべ」では、現在いろいろな舞台で活躍する大人たちを取材し、彼らの20代のお話を聞きました。
いまだからこそ言える“少しでも人生を前に進めていくためのヒント”です。

好きなことをまず、やってみる。 ー株式会社 植松電機 代表取締役 植松 努さん

北海道のほぼ真ん中に位置する赤平市。人口1万人あまりの山間の街に、植松さんが代表を務める植松電機はあります。TEDに登壇した際、「思うは招く」というテーマでプレゼンをし、多くの人々を感動の渦に巻き込んだ植松さんは、今も全国各地で企業研修や講演活動(学校含む)を行い、可能性を広げることの大切さを伝えています。そんな植松さんはどんな半生を歩んできたのでしょうか。

〜20歳 大好きな世界に進めないかもしれない、という挫折感。

―大学進学の頃に思い描いていた夢、なりかったものは何ですか?

植松さん:飛行機の開発・製造に携わりたいと強く思っていました。それは夢、というよりも僕にとっては具体的な目標でしたね。でもだからこそ、大きな挫折感を味わうことになったんです。

小学校の頃から飛行機が大好きで、紙飛行機を作ってはどうやったらうまく飛ぶか研究し、難解な計算式なども覚えて、中学生の時には飛行機の旋回性能といった専門知識も身についていました。

高校に入ってもその夢は変わらず、大学で流体力学を学びたいと考えたのですが、飛行機のことは詳しくても、英語など学校の勉強はさっぱり。だから、「お前に飛行機を作ることは無理」と先生から宣告されたんです。何しろ、直前の模擬試験はEランクでしたし……。

―それでも大学を目指し、合格してしまいますね。

植松さん:植松さん:国立(現・国立大学法人)の北見工業大学一本に絞って受験しました。どうして合格できたか自分でもわからない部分もありますが、ともかく念願の大学進学。けれどもそこでいきなりまた挫折を経験しました。「この大学から、飛行機の開発の仕事を目指すのはとても難しい。だから無理だ。」と言われて。確かにその大学の過去の実績でもほとんど例がなかったんですが。すごくショックでした。

ただ、ちょっと見渡すと大学の図書館には本屋さんで売っていない専門書がずらり。研究設備もあり、先生もいずれかの分野の専門家。そんな環境で学べることで学問の面白さを知りましたね。そして、もっと嬉しかったのは、高校時代は誰に話しても通じなかった技術分野の話題で盛り上がれる友人がいたことでした。

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20歳〜22歳 諦めないという気持ちを支えた、高校からの思い。

―とはいえ、希望する仕事には就けそうもなかったわけですよね。

植松さん:はい。なので飛行機は難しいからクルマ関係に進もうかと考えていました。自動車も好きだったので、それもいいかなと思い始めていた頃、中標津という道東の町をドライブしていました。広い広い平野が続く町です。その丘でふと空を見上げると、小さな飛行機がスーッと飛んでいったんです。ウルトラライトプレーンです。

それがちょうど着陸態勢に入ったので、思わずUターンし、着陸地点を追いかけました。その時、ある記憶が蘇った。高校時代にたまたま雑誌でウルトラライトプレーンのことを知ったんですが、「超軽量動力機」と呼ばれるこの飛行機は、当時は航空法上の許可さえ得れば誰でも作ったり、飛ばすことができる、ということ。

そこで私は自分でも作りたい!と思って、高校ではずっとその設計図を書いていたんです。教科書にまで書き込んで、ずいぶん怒られましたが(笑)、当時のその気持ちが一気に迫ってきました。やっぱり、飛行機を作りたいって。

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―高校時代のその感情は、とても大きなものだったんですね。

植松さん:そうですね。それで着陸地点に駆けつけて、パイロットに話しかけると、なんと乗せて飛んでくれたんです。ガタガタと砂利道を走ったと思ったら、ぐんぐん上空へ。ちょうど夕日が沈む頃で、蛇行する川がオレンジに光って、それはきれいでした。

そこはまったくの無音の世界。華奢に見えた羽はものすごく丈夫で、何の恐怖も感じない。でも……僕はこの世界にはいけない、悲しいなと思っていると眼下にシャープペンの芯のような線が一本。何だろうとよく見ると、それは道路でした。さっきまで自動車で自由に走り回っていたと思ったのは、ただの一本の線。一方、上空では360度全空間が領域です。圧倒的な自由さ。

“やっぱり飛行機だ、飛行機の世界を諦めないぞ。”という気持ちになり、大学に戻ると友人から担当教授まで、会う人、会う人に自分の思いを話すようになった。そのうち、教授たちも、どうやらこいつは本気だと気に留めてくれるようになり、それが航空機産業への就職に結びついたんです。

22歳〜28歳 コンプレックスを乗り越えさせてくれた〝おせっかい〟

―小さい頃からずっと抱いていた夢がついに実現したと。

植松さん:就職したのは、名古屋にある三菱系の企業。大学に求人が来て、飛行機の仕事だけどどうだと、教授に勧められたんです。ウルトラライトプレーンに出会って思い出した気持ちを話していたお陰で、この仕事なら植松だ、と思ってくれたみたいで。その時に思いましたね。夢って、しゃべらないと叶わないんだなって。

考えてみると、中学校時代に“飛行機の仕事なんて東大クラスを出ていなければ無理”と先生に言われて以来、諦めもあって人に自分の夢をしゃべって来なかったんです。ところが、熱意を持って話し始めると、こうやってつながっていく。やってみたいと思うことは、まず口に出して言うということの大切さを実感しました。

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―そこでは、どんな仕事を担当していたのですか?

植松さん:まさに、僕がやりたかった航空機の設計をはじめ、リニアモーターカーや新幹線の設計、宇宙船などの開発にも携わりました。派遣社員という立場でしたが、そこはあの堀越二郎が働いていた会社だったんです。堀越さんは零式艦上戦闘機、いわゆる零戦の設計者で、僕は子どもの頃に本で知り、飛行機の開発という面から憧れていた人物。

運命って、わからないものだなと思いましたね。仕事は、やることやること全て楽しくて、それに会社の書庫にはまさに門外不出の専門書や資料がぎっしり。僕にとっては天国のような環境でした。

―夢も叶って、順風満帆、ですか。

植松さん:それが、そうでもなくて、すぐに大きく落ち込みました。同期入社の社員には、東大、京大、阪大といった日本でもトップクラスの大学出身者がずらり。会話の内容も高度なことばかり。自分はここでやっていけるのかなと……。

学歴にコンプレックスを感じて、それがすごいストレスになっていきました。もっとも、飛行機関連の知識なら大学では教授にも負けないほどだったので、技術的な会議の内容は誰よりも理解できる。

だから、自分が勝てる部分だけで人と関わることで自信を保とうとして、会社では誰とも交流しなくなった。会社の寮に住んでいたのですが、一人きりのような状況。そしてそんな自分の有利な条件だけで戦おうとしている自分が嫌で、辛かった。そういう時期が続きました。

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―どうやって、その状況を乗り越えていったのでしょうか。

植松さん:それは“おせっかい”のおかげです。そんな僕のことを、隣の部屋にいた同期の男だけは、しきりと構ってくれたんですね、遊びに行こう、行こうって。

でも、その男は背が高くてイケメンでスポーツマン。その段階で、もう大嫌い(笑)。おまけに彼女までいる。だから僕は断り続け、会社の飲み会で僕は、その男の悪口ばかり。それでも誘ってくれて、冬になると今度はスキーに行こうと。スキーなら僕だって腕に覚えもあるし、それじゃあ行こうかと。すると彼はあまり上手に滑れない。だから、教えてあげるとスポーツマンだからすぐに覚える。そして“植松に習うと、スキーがすごく上達する”と周囲に話す。するとそのうち、俺も俺もと人が集まってくるようになって仲間ができ、仕事がさらに楽しくなっていきました。

僕はもともと、それほど社交的な方ではなくて、人と深く関わることを避けていたような部分があるのですが、余計なことではないだろうかなどと恐れずに、積極的に関わっていくことの大切さをその男から教えられた気がします。今でもとても感謝しているんです。

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― 一人きりではなくなって、プライベートも充実していったと。

植松さん:そうそう。週末には、とにかく仲間と遊びに出かけていました。ゲーセンに入り浸り、その後はカラオケに行って、飲んで、バタンキュー。今と違って、当時はたっぷり残業もあり、バブル期で景気も良かったので月給は50万円近くになりましたが、それがひと月ですっからかん。その繰り返しでした。

でもある時、ゲームをしながらショーウィンドウに映った自分の顔と目が合って。“いつまで、こんなこと続けるんだろう、自分は一体、何をやっているんだろう”と思ったんですよね。
仕事は順調でした。おもしろくて、いろいろなアイデアを出しているうちに、どんどんプロジェクトを任されて、人を使う立場になっていって。

けれども、そこで大きな障害に突き当たりました。僕はとにかく飛行機が好きだから、とことん仕事をしたい。プロジェクトの報告会が近ければ、徹夜してでも、実のあるものを発表したい。ところが、スタッフとは気持ちの温度差があった。無理やり残らせるわけにもいかない、ということで結局、自分だけでやるわけですが、一人でできることは限られるので、仕事のクオリティが落ちる。そんなことなら、その仕事を受けなければよかったという後悔が募って――。このままでは自分が壊れてしまうんじゃないかと思いました。そうしたことが重なり、芦別(当時の実家)に戻ることにしたんです。それが28歳の時です。

【28歳〜】 幼い頃の興味がロケット開発へとつながって。 続きは次のページへ